イラストレーター 渕上コウジが各地の史跡をめぐり、
歴史のロマンにインスパイアされてイラストを描く歴史エキシビション、
略して「レキシビション」。

【第3回】菊池神社の巻

今回は福岡市城南区七隈にある菊池神社をご紹介。
家から歩いて10分。またまたご近所ですみません。
子供の頃はここで虫を採って遊んだり、毎年初詣に来たりと、僕にとっては馴染みの深い場所です。

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今でも散歩コース。
いい「気」が流れているような気がします。

 

菊池神社は、南北朝時代の肥後の武将、菊池武時を祭神とする神社です。
菊池武時は1333(元弘3)年に後醍醐天皇の綸旨をうけて、
幕府の鎮西探題(九州の統括のために設置した機関。現在の博多区祇園付近にあったと思われる)を攻めましたが、味方であった少弐氏・大友氏の離反にあい、あえなく敗退。
菊池軍は全滅してしまいます。

武時は戦に負けて落ちていくとき、六本松の辺りで討たれて首を落とされましたが、胴体だけが馬に乗ったまま走って、鳥飼では腕を落とされ、七隈でついに力尽きて落馬。
首の落ちたところが六本松にある「首塚」、胴の落ちた七隈にあるのが「胴塚」であると言い伝えられています。

この話をはじめて聞いたのは子供の頃で、
首のない騎馬武者が敵軍の中を突っ走っている異様なイメージが強烈で、
何とも言えぬ恐ろしさと同時に、強い憧れを抱いたものです。

 


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戦いに敗れた武時のたどった道ですが、こういう経路ですかね。

 

 

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これが菊池神社本殿の裏にある「胴塚」です。
こんもりとした円墳のようなところに墓碑が建っています。

 

こちらが六本松にある、菊池霊社です。
社殿は無く、鳥居と墓碑が建っています。

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「菊池寂阿(じゃくあ=武時)公之墓」

 

しかし当時の記録である『博多日記』によれば、
実際は探題館で討たれ、その首は館の犬射馬場というところに晒されたそうです。

また、鎌倉時代の博多を描いた絵図を見ると、今とは地形が全然ちがっていて、
現在の天神周辺や六本松、鳥飼あたりは海だったはずで、
鎮西探題(祇園)→六本松→鳥飼→七隈という経路をたどったという話は、ちょっと無理がありますね。

 

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ではなぜ七隈と六本松に菊池武時が祀られたのか?

じつは武時の鎮西探題攻めから500年ほどたった江戸時代、幕末の尊皇思想の高まりの中で、
その行為が「幕府打倒の口火を切った勤皇の魁」として賞賛されはじめます。
そして武時戦死500回忌を機に、菊池氏の末裔である福岡藩士・城武貞によって墓探しが始まり、
それらしき墳墓があったこの地に墓碑が建てられました。
その後の1869(明治2)年、筑前黒田家によって、その場所に菊池神社が建立されました。

また、現在「菊池霊社」として祀られている六本松の首塚のほうも、時代ははっきりしませんが
もともとこの場所にあって誰かの墓だといわれていた老木を占ったところ、武時の墓と出たいうのが始まりのようです。
明治35年、明治天皇より武時に従一位が贈られた事を記念して近隣住民が費用を出しあい、「贈位之碑」を建立。
そして昭和7年の没後600年祭に「菊池寂亜公之墓」の墓碑と鳥居が建てられ、現在の姿になったそう。

こうして見ると、少年時代の僕が胸を熱くした伝説も、
幕末〜明治そして昭和初期という時代の、政治的な空気によって作り出されたお話だったという匂いが濃厚なようです。

とはいいながら、やはり伝説は伝説として信じたい気もします。
そのほうがロマンがありますもんね。

壮絶な伝説を生み出した時代背景や後世の人々の思い、
数百年たった今もこうして信仰の対象になっている事なんかを考えると、
歴史的な信憑性はともかく、とても興味深いものがありますね。

 

菊池神社:福岡市城南区七隈7-3-8 地下鉄七隈駅より徒歩3分

 

菊池霊社:福岡市中央区六本松3-12-7 地下鉄六本松駅より徒歩10分

 

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