歴史のロマンにインスパイアされてイラストを描く歴史エキシビション、
略して「レキシビション」。
【第5回】唐原・平家落人の里の巻
さて今回おとずれたのは、糸島市二丈糸島市北部、
標高約330mの山あいにある戸数6軒の小さな集落・唐原(とうばる)です。
平安時代の末、栄華を極めた平家の勢いにも陰りが見えはじめ、
源氏によって都を追われた平家の人々は、各地に逃れ人里離れた所に隠れ住みました。
寿永3年(1184)、木曽義仲により京を追われた平重盛(たいらのしげもり:平清盛の嫡男。清盛の後継者として期待されながらも、42歳の若さで病死)の内室は二人の姫を連れ、郎党や侍女と供に太宰小弐であった怡土城主・原田種直(妻は重盛の養女)を頼って落ち延びてきました。
種直は領内の山深い集落・唐原に一行をかくまいましたが、
一年ほど経った頃、源氏の落人狩りの手はこの地にまで及び、二人の姫は無惨にも殺害されてしまいました。
これを知った内室は、生きる希望を失い、自ら命を断ったということです。
平重盛内室の墓
中央の五輪の塔が、内室の墓。
傍らにある自然石が二人の姫、千姫・福姫の墓だと言われていますが、
内室に従ってきた乳母、家臣の墓であろうとも言われています。
近くの小高い丘は黒髪山と呼ばれていて、
そこには平重盛の遺髪を埋めたという「黒髪塚」があります。
「黒髪塚」
江戸時代末期、村人によって盗掘されたが、その後疫病が発生したため、すぐに悔いて元にもどされたそう。
どのようなものが埋まっていたのかは不明です。
黒髪山のふもとには、「都見石(みやこみいし)」という大きな石があって、そこから下界を見下ろすことができます。
内室や姫たちがここに立ち、遠い都を想って涙したと言われています。
寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の合戦で平家は滅亡。時代は源氏の世に代わります。
一度は「平氏にあらずんば人にあらず」というほどの栄華を極めながらも、都を追われ滅んでいった平家の人たち。
ここに立つと「諸行無常」を思わずにはいられませんねぇ。
唐原:
県道49号(大野城二丈線)石崎交差点より山手に10分